米国インディペンデント映画の先駆者の一人、ベット・ゴードン。1970年代末から80年代にニューヨークのアンダーグラウンドで起こった音楽やアートのムーブメント「ノー・ウェイヴ」周辺で活動した映画作家であり、「セクシュアリティ」「欲望」「権力」をテーマにした大胆な探求と創作を行っている。長編第一作『ヴァラエティ』に併せて、中編『エンプティ・スーツケース』と短編『エニバディズ・ウーマン』を一挙劇場公開!
1950年6月22日生まれ。ウィスコンシン大学マディソン校にて学士号、修士号、芸術修士号を取得。1970年代に実験映画の制作を開始。初期の作品はマイケル・スノウなどの映画作家による「構造映画」に触発されたもので、ジェームズ・ベニングと共同制作がなされた。1970年代末からニューヨークで活動。前衛映画の拠点であった「Collective for Living Cinema」で働きつつ、アンダーグラウンドで起こった音楽やアートのムーブメント「ノー・ウェイヴ」周辺で活動。セクシュアリティ、欲望、権力をテーマに大胆な探求と創作を行う。長編第一作『ヴァラエティ』(1983) は、カンヌ国際映画祭「監督週間」で上映された。いくつかの監督作品は、ホイットニー美術館、ポンピドゥー・センター、ベルギー王立映画アーカイブ、英国映画協会、MoMA、アンソロジー・フィルム・アーカイブスの常設コレクションに収蔵されており、米国のインディペンデント映画の先駆者として再評価が進んでいる。現在、コロンビア大学芸術学部映画学科で教鞭を取っている。
『ヴァラエティ』と二つの短編『エンプティ・スーツケース』『エニバディズ・ウーマン』を日本の皆さんにご覧頂けることは、とても特別で意義深いことです。私の映画制作の実践は、小津安二郎、黒澤明、溝口健二、大島渚といった日本の偉大な映画監督たちにも影響を受けてきました。また、現代の日本の若い映画作家の作品に感嘆しており、それらと私の映画的ビジョンを共有できることに興奮しています。
『ヴァラエティ』は、私のニューヨークに対する感性を映し出した作品です。それは、ザラザラしていて、爆発しそうで、何世代にも渡って映画監督たちが舞台にしてきたタイムズスクエアの眩いネオンの光と暗い通りに溢れています。
『ヴァラエティ』はゴードンの長編デビュー作であり、哲学者/美学者のノエル・キャロルが 「ニュー・トーキー」と呼んだ潮流にも含まれる一連の優れた実験的短編作品の後に作られた(「ニュー・トーキー」とは主に女性によって作られた映画作品。それまで前衛芸術を支配していた形式主義を打ち破り、物語、記号論、主観性を取り入れた。)。ゴードンのスーパー8mmフィルムによる作品『エニバディズ・ウーマン』(1981)は、1930年のドロシー・アーズナーの同名の傑作に因んで名づけられた。20分強のこの作品は、『ヴァラエティ』のためのスケッチとなっており、ほぼ全ての構成要素が揃っている。それは都市のエロティシズム、女性の好奇心に満ちた眼差し、性的に露骨なモノローグ、1970年代のポルノを支配する論理が古典的なハリウッド作品のそれとそれほど変わらないという挑発、などである。
『エニバディズ・ウーマン』に欠けているのは、統合的なストーリーだ。それがキャシー・アッカーの脚本を得て『ヴァラエティ』になった時、この作品は十分に伝統的な物語映画の体を成している。これを主流に食い込もうとする試みと見るのはそれほど的外れではないかもしれないが、この視点だと『ヴァラエティ』には物足りなさがある。1985年の「ニューヨーク・タイムズ」紙の批評はそれを示している。ジャネット・マスリンは、『ヴァラエティ』は 「ひどく不十分な脚本…そして静的で遠慮がちな演出スタイル」に苦しんでいると評した。この作品は、ブレヒト的な技法に触発された前衛芸術の伝統から生まれたものとして捉えた方がよい。ブレヒトの技法は、静的な演技と省略的な筋書きによって、ハリウッドの過剰な幻影を打ち破る手段として注目された。『ヴァラエティ』にとって、メジャー映画スタジオの慣習は憧れるものではなく、改ざんして解体すべきものなのだ。
作品全体を通して、背景で展開される別の物語の気配が潜んでいる。それはルイとマークが主役となる金と汚職の物語だ。クリスティーンが垣間見るこの世界は、スクリーンで見る性的空想に似た、ほとんど幻覚のような性質を帯びている。男たちが握手を交わし、取引を成立させるというミステリーは、通常物語の中心となるが、ここではそれは脇に退いている。一方で、街の風景やダウンタウンの有名人であるナン・ゴールディンやクッキー・ミューラーらが演じる女性たちがセックスや仕事について語り合うシーンに、たっぷりとスペースが取られている。この自然主義は、高度な技巧へ逃げることに相反する。特に、クリスティーンが困惑したマークに語る、ポルノ的なモノローグの数々がそうだ。性行為を言語行為に変えるという反スペクタクルによって、物語を凍結させる。この異質な言説の噴出は、この映画が持ち得たかもしれないあらゆるリアリズムの衝動を損ない、女性の欲望の率直な表現が支配的な表象の規範といかに同化不可能であるかを示している。
COMMENT(五十音順)
ままならない状況で、自分が破滅にむかっているかもしれないと予感しつつも欲望のままつき進んでしまう様子が孤独で痛々しくも、映画のまなざしは優しく見守るように温かかったです。
(俳優、美術家)
(映画zine「ORGASM」発行人)
(映画研究者、明治学院大学文学部教授)
(ドイツ映画研究者、日本大学文理学部教授)
(アーティスト)
(字幕翻訳/C.I.P. BOOKS)
(翻訳者・ライター)
(映画研究者、関西大学文学部教授)
(翻訳家)